ふれっしゅのーと

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趣味に生きる30代エンジニアが心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくるブログ

大津城縄張推定復元図片手に幻の大津城を歩く

塞王の楯』を読んだ勢いで、Googleマイマップで「大津城縄張推定復元図」を作りました。大津城跡の散策のお供にどうぞ。

大津城縄張推定復元図(Googleマイマップ)

『図説 大津の歴史(上)』(大津市歴史博物館市史編纂会, 1999)の大津城縄張推定復元図をベースに、後述の関連資料を参考にして橋や天守を補筆して作成。

  • 内側から順に「奥二の丸」「二の丸」「三の丸(浜町口側は香集丸)」
  • 琵琶湖に突き出しているのが左から順に「伊予丸」「本丸」
  • 入口は「尾花川口」「三井寺口」「浜町口」の3箇所
  • 外堀の南半分の空堀部分は茶色で図示。ここは琵琶湖より標高が高いので水が入らない。(たとえサイフォンの原理で導水しようとしても物理学的に無理)

大津城とは

現地の説明板より大津市観光振興課の文章を引用しておきます。

 戦国時代の終わり、豊臣秀吉坂本城を廃し、この付近一帯に大津城を築きました。築城年代は天正14(1586)年頃とされ、初代城主は坂本城主であった浅野長吉(長政)、その後、増田長盛、新庄直頼を経て、文禄4(1595)年に京極高次が就任しています。
 高次の妻は浅井三姉妹の次女「お初」でしたが、慶長5(1600)年の天下分け目の関ヶ原の合戦においては、東軍についたため、西軍の大軍が大津城に押し寄せ、奮闘の末、関ヶ原の合戦の当日、開城しています。高次は西軍の大軍を引き付け、結果として関ヶ原の勝敗を大きく左右したとしてその後、加増のうえ小浜藩主に転封しています。
 大津城は合戦の翌年に廃城。徳川家康は、新たに膳所の地に天下普請第1号として膳所城を築いています。なお、大津城の天守は、落城しなかったという縁起をかついで彦根城に移されています。

大津城跡散策

本丸跡

本丸の場所はびわ湖浜大津駅前でアクセスもよいので、目立つ場所に「大津城跡」と刻まれた石碑が立っています。


大津城跡


大津城縄張推定復元図(元ネタ)


本丸から二の丸を望む

外堀の石垣遺構(?)

大津祭曳山展示館(中央1丁目)の隣の駐車場に外堀の遺構だと言われる石垣が残っています。


駐車場の奥に一部だけ残るいかにもな石垣


穴太衆積み?……には見えないが……


縄張推定復元図と照らし合わせると外堀の端ではなく中央に位置している……

大津城の復元石垣

京都信用金庫大津支店(浜大津1丁目)の前に大津城の石垣が復元されています。

ちなみにこのあたりの旧地名は「坂本町」といい、豊臣秀吉坂本城を廃して大津城を築いた際に、坂本城の城下町の人々が移住したことに由来します。

おわりに

大津城は戦国時代の近江を代表する湖城でしたが、廃城時期が早く、現地に遺構がほとんど残っていないこともあり、知名度自体もそんなに高くありません。

しかし、現地調査ではわかりづらくても地図で見ると見えてくるものもあります。大津城の縄張図を現在の地図と重ねてじっくり観察してみると、堀の外郭が現在の道路・宅地・溝渠などの土地区画と一致している箇所がちらほら見つかり、わずかですが往時の大津城の威容が目に浮かんできます。

今昔比較から得られるこの感動をより多くの人々に味わっていただけるように、今回大津城縄張推定復元図をGoogleマイマップで公開しました。ぜひ地図を眺めて戦国の風を感じてみてください。

参考資料