友人らとやっている研究会で「鞍馬」に関する発表を聞きました。
今日は某所で「鞍馬」についての発表をしました。鞍馬山の地質から鞍馬炭、鞍馬街道など、鞍馬にまつわる歴史地理を解説。最後は強引に竈門炭治郎=源義経説を吹聴してきました(もちろん冗談です)。 #参道研究会 pic.twitter.com/CqgyZlEM00
— 永太郎(ながたろう) (@Naga_Kyoto) 2021年2月11日
義経=竈門炭治郎説(笑)も面白かったのですが、古地図好きとして一番気になったのはやはり鞍馬街道の道筋です。
とのこと。起点は京の七口の一つである「鞍馬口」で現在の出雲路橋西詰付近です。下鴨村を現在の下鴨中通りに一致するルートで北上していくのですが、古地図を見ると、途中で何かを迂回するかのようにぽこっと膨れる意味深なカーブがあるのです。
▲1/20000「京都北部」明治42年測図 大正1.8.30発行(今昔マップより)
ふとんくん「鞍馬街道が曲がってるのは何故?」
永太郎くん「塚のようなものを迂回してるようですね」
確かにカーブの内側にはケバで囲まれた濶葉樹林(広葉樹林)の地図記号が描かれており、いかにも塚です。研究会では塚の真相には触れられませんでしたが、何の塚なのか気になって仕方ありません。昭和初期まで現存していた塚だったので、幸い図書館に行かずともGoogle検索だけで比較的簡単に真相にたどり着けました。
- 京都市遺跡地図で「半木町塚跡」という記載を確認
- 「半木町塚跡」でググり、京都府埋文研のセミナー資料『平安京北郊でみつかった居館 -植物園北遺跡の発掘調査から-』で「江戸時代に「王塚」と呼ばれた後期の半木町塚跡がある」という記載を発見
- 「半木町 王塚」でググり、京都市埋文研のリーフレット京都No.80(1995年8月)『下鴨の王塚』を発見。初出文献として江戸時代の安芸藩の藩医・黒川道祐が著した紀行文『近畿歴覧記』(1678年)が紹介されていた。
- 国立国会図書館デジタルコレクションで黒川道祐『近畿游覧誌稿』(1910年の復刻版)を調査。p.95「東北歴覧記」に王塚に関する記述を発見。
…というアプローチで真相に至りました。
結論:塚の正体は、古墳時代後期の古墳でした!
黒川道祐『近畿歴覧記』(1678年)より
延宝九年辛酉春三月十六日(…略…)鴨川ヲ歴テ(=経て)、御手洗ノ森(=下鴨神社の糺の森)ヨリ北ニ出ツ、御泥池(=深泥池)ノ南ニ王塚トテ車塚(=前方後円墳)ノ跡アリ、其ノ西ニ王塚縄手ト云フ路筋アリ(=鞍馬街道のこと)、一代ノ主上(=天皇)御陵ト見ユ、何レノ御代ソ聞カマホシキ事ナリ
少なくとも昭和の初め頃までは現在の京都府立大学の南東部あたりに残っており、地元では「西の塚」・「西大塚」・「石城山」などと呼ばれていたようです。また、石室が開口していたらしいことから、横穴式石室があったようです。そして、鞍馬街道が古墳を迂回するように西に曲がっていることから、比較的大きな古墳であったのではないかと思われます。王家の北には古墳時代の集落・植物園北遺跡があり、当時の首長の古墳であったとも考えられます。この他にも高まりが描かれている地図もあることから、古墳群があった可能性もあります。
近代京都オーバーレイマップで確認したところ、昭和4年の地図にはまだ古墳が描かれていますが、北大路通が建設された昭和10年には地図から消えていました。当時の京都市は現在ほど史跡保存に熱心でなかったので、宅地開発により破壊されてしまったのでしょう。
古地図を見ると丸くこんもりとした塚になっているので「円墳」に思えるのですが、1678年の『近畿歴覧記』に「車塚」と書かれているのが気になります。「車塚」とは御所車のような形をした塚のことを表し、普通は「前方後円墳」のことを言います。
地割をよく見ると、塚の北東側にスペースが余っており、それを取り囲むように水路(周溝)が巡っています。ここにも何かがあった気がしてきませんか。発掘調査記録を紐解いてないので正確なことは言えませんが、前方後円墳の方墳部が開削されて水田になり、円墳部だけ残ったパターンかもしれません。
実は、こういうパターンは結構あります。
守山市民ホールの前にある森が「庭塚古墳」。円墳のように見えるが、前方後円墳だと推測されている。航空写真で見ると南側の田んぼの形がすごく不自然。南側に前方部があったのかな? pic.twitter.com/4Ex0cnjSYK
— 風霊守 (@fffw2) 2016年9月10日
番山古墳は円墳だが、田んぼの地割から元々は帆立貝型古墳だったと推定されている。 地割に古墳の痕跡が残るパターン、好き。 pic.twitter.com/wmg2c4iq7z
— 風霊守 (@fffw2) 2018年12月1日
伊丹空港の近くに古墳を見つけた。麻田御神山古墳。阪急宝塚線の線路で分断された前方後円墳で、後円部が個人宅の敷地として残存している。敷地面積が広く、なんと個人専用の踏切まで設けられている。きっと現代の豪族がお住まいになっているのだろう。 pic.twitter.com/kSAtBOrKFf
— 風霊守 (@fffw2) 2018年12月25日
那古野山古墳。大須商店街にある前方後円墳(後円部のみ現存)。江戸時代に富士塚となり、明治時代に愛知県初の公園(波越公園)となったが鶴舞公園完成に伴い廃止され、大正時代に規模を大幅に縮小して那古野山公園として復活し、現在に至る。 pic.twitter.com/EymvBGGVPU
— 風霊守 (@fffw2) 2016年3月12日
王塚の跡地は現在個人の邸宅になっており、特に石碑や説明板は建っていません。しかし面白いことにこの場所に建っている家だけ周囲より1.5mほど土地が高くなっています。地中にまだ古代の首長が安らかに眠っているということは流石にないと思いますが、将来家の建て替え工事を行う際に発掘調査が行われたら埴輪の破片なんかが出てくるかもしれません。