ふれっしゅのーと

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趣味に生きる30代エンジニアが心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくるブログ

行宗春意さん、お忘れ物が届いてますよ。

江戸時代の忘れ物

草津宿本陣(滋賀県草津市)で2019年に江戸時代の忘れ物(失念物)が発見されたニュースがありました。土蔵内の箪笥の引き出しに全18点の忘れ物が保管されており*1、その中でも特に新選組の忘れ物である煙管(キセル)入れは注目を浴びました。

www3.nhk.or.jp

今回、『広報くさつ』2024年6月号の歴史コラムを読んでいて、新選組の陰に隠れたその他の忘れ物の1つに興味を惹かれました。

田中七左衛門本陣に残された膨大な歴史資料の中でも特にユニークなのが、全18点の「忘れ物」です。(略)例えば2点が残る「鍵」(略)紙札によると「土州藩(土佐藩)」の行宗春意(ゆきむねはるおき ※ふりがなは推測)という人物が草津宿内の合羽屋という旅籠に忘れたもののようです。「庭に落ていたと子供箒ひろい候(原文ママ)」と、発見時の状況まで書き留められていました。
 

「行宗春意」という持ち主の名前まではっきりと書いてあるのです。この行宗さんは一体どんな人物だったのか、子孫はいるのか、もし子孫がいたら「忘れ物が草津宿本陣に届いてますよ」と教えてあげたい、そんな気持ちがふつふつと湧いてきました。

行宗春意さんはどこのどなたなのか

まず Google 検索してみましたが……

"行宗春意"との一致はありません。

おそらくこのブログ記事を投稿した後は Google 検索結果は1件になっていることでしょう。

さて続いて国立国会図書館デジタルコレクションで検索してみました。すると1件ヒットしました!

山内神社高知県高知市)の土佐山内家宝物資料館に所蔵されている『幕末維新』という書物に行宗春意さんの名前がありました。


山内家史料刊行委員会『幕末維新』第12編 (第十六代豊範公紀 明治二年一月一日~明治三年二月末日)(国立国会図書館デジタルコレクション) p.154 より引用

茶道に関する内容のようです。明治時代の手書き文書にしては比較的読みやすい字で書かれているので、なんとか読み取れそうです。

六日茶道ノ蓄髪ヲ許ス
明治二年記録四月六日
 
一 御茶道頭始御坊主共左之通被仰付可然之詮議之上……今日御茶道頭行宗春意役場へ招端書相渡御近習懸り参政御屋敷御用役等へ以切紙及通達食貨懸り参政之を書付夫夫相渡……
 
……此度御詮議振を以御茶道頭始御坊主共蓄髪被差明之尤髷致候儀を不被成束髪たるべき事……

明治の世になって茶道関係者の蓄髪(髪を伸ばすこと)を認めるお達しが出たことを受け、御茶道頭である行宗春意さんを役場へ招いて文書を渡した、といった内容だと思われます。行宗春意さんが土佐藩の茶道頭だったことがわかりました。

「行宗 茶道」で再び Google 検索すると、

行宗桃源宗行 - 茶人で先祖は大忍庄西川城主、のち長宗我部家臣 - 南国土佐へ来てみいや というブログ記事がヒットしました。

行宗桃源宗行(ゆきむね とうげん むねゆき)は、文政6年(1823)に土佐郡小高村(現・高知市)父・五代目桃源の子として生まれる。80石取りの代々茶の湯に関わってきた藩士の家で、行宗春次(4代目)、桃源(5代目)(渕魚・新柳斎)と続く。桃源は父から石州流の茶の湯を受け継ぎ、さらに江戸在勤の折に千家の弧峰庵・川上不白に入門し、その系統の茶道を深めた。幕末から明治初期にかけて、高知市の庶民の間に、江戸千家流をひろめた人である。明治15年(1882)に60歳で没。
【参考・引用】 『高知県人名事典 新版』 高知新聞社

引用の引用で恐縮です。ここに行宗春意さんは出てきませんが、行宗春次という似た名前の人がいることから親戚ではないかと推測できます。時代的に行宗桃源宗行に次ぐ6代目あたりが行宗春意さんだったのではないでしょうか。

今回の調査でわかったのはここまで。茶道の名家とのことなので、現代まで脈々と続いているかと思ったのですが、残念ながら子孫と思しき人物までは辿り着けませんでした。このブログ記事が偶然子孫の目に触れて、ご先祖様が落とした鍵が遠く近江の地に遺失物として保管され続けていることが伝われば幸いです。

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草津宿本陣については、友人に草津の街を案内したときの記事でも触れています。こちらも良ければお読みください。

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