はじめに
(本記事には大量の実況ツイートを埋め込んでいます。すべての読み込みが完了するまで一旦ここでお待ちください)
ロシアのニコライ皇太子が現在の滋賀県大津市で巡査津田三蔵に斬りつけられる「大津事件」が発生してから、今年の5月11日で130年になります。ちょうど良い節目なので、#大津事件130年 というハッシュタグで、事件発生の2日前からの犯人と被害者の足跡を130年前と同日同時刻にツイートしていきます。
— 風霊守 (@fffw2) May 8, 2021
明治24年5月9日(土)(事件前々日)
明治24年5月9日7時:あさって大津を訪れる予定のニコライ皇太子らの警護のため、守山警察署三上駐在所に勤務する巡査津田三蔵が野洲郡三上村の自宅を出発した。いつもと変わらぬ様子であり、この時はあんな凶行に及ぶとは本人でさえも全く思っていなかったことだろう。#大津事件130年 pic.twitter.com/n3TYNQfUy3
— 風霊守 (@fffw2) May 8, 2021
明治24年5月9日12時:津田が同僚と共に湊町(現浜大津)の大津警察署に到着。桑山吉輝署長の訓示を受けた後、警察署の近くにある佃テイが経営する旅館に入った。#大津事件130年 pic.twitter.com/9PvUWtdAxh
— 風霊守 (@fffw2) May 9, 2021
明治24年5月9日13時:ニコライ皇太子らを乗せたアゾヴァ号が神戸港に入港。これまでに長崎と鹿児島を既に訪れている。#大津事件130年 pic.twitter.com/pzQcTEr7qf
— 風霊守 (@fffw2) May 9, 2021
明治24年5月9日14時:ニコライ皇太子らは神戸御用邸(現神戸ハーバーランドumie立体駐車場)に入り、休憩の後、栄町経由で生田神社を参拝した。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 9, 2021
明治24年5月9日15時20分:神戸の宇治川沿いに人力車を進め、ニコライ皇太子らは湊川神社に到着。楠木正成を祀る奥殿に土足のまま立ち入り、国民の反感を買うのではないかと林董兵庫県知事は焦ったが、皇太子は空気を読んで階段前で立ち止まり、帽子を脱いで深々と一礼した。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 9, 2021
明治24年5月9日16時:ニコライ皇太子らは神戸停車場から特別列車に乗車。京都へ向かった。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 9, 2021
明治24年5月9日18時20分:ニコライ皇太子らを乗せた特別列車が京都の七条停車場に到着。山階宮晃親王、久邇宮朝彦親王、北垣国道京都府知事らが構内で出迎え。歓迎のため停車場裏の京都牧畜場(小牧牧畜場)分場から花火21発が打ち上げられた。#大津事件130年 pic.twitter.com/unV9NzItT1
— 風霊守 (@fffw2) May 9, 2021
明治24年5月9日18時50分:ニコライ皇太子らが七条停車場から人力車で烏丸通を進み、常盤ホテル(現京都ホテルオークラ)に到着。先頭の人力車3台にはニコライ皇太子、ジョージ親王(ニコライ皇太子の従弟)、有栖川宮威仁親王が乗車し、後続の65台には随行員らが乗車していた。#大津事件130年 pic.twitter.com/gL46JYYZDh
— 風霊守 (@fffw2) May 9, 2021
明治24年5月9日夜:ニコライ皇太子らが、山階宮、久邇宮、有栖川宮と常盤ホテル2階の食堂で歓談。東山如意ヶ嶽と衣笠山に季節外れの大文字が点火された。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 9, 2021
明治24年5月9日21時30分:ニコライ皇太子らが夜の祇園を楽しむため、おしのびで中村楼に到着。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 9, 2021
明治24年5月10日(日)(事件前日)
明治24年5月10日2時:芸妓や舞妓と打ち解けたニコライ皇太子らはついつい飲み過ぎ、常盤ホテルに戻ったときには日が変わり午前2時になっていた。(面白いことにニコライ皇太子の日記では「午後11時」に宿に戻ったことになっている)#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 9, 2021
明治24年5月10日10時:朝食を済ませたニコライ皇太子らは人力車で丸太町の京都市工業物産会(現京都御苑富小路広場)に到着。象牙や花瓶などの工芸品を次から次へと購入し、買い物の総額は1万円以上に及んだ(当時の巡査の初任給は月8円)#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 10, 2021
明治24年5月10日11時30分:ニコライ皇太子らは大宮御所で蹴鞠を鑑賞後、建春門前の芝生に設けられた御覧所に到着。13時前まで小笠原流の射術や加茂儀式の競馬を楽しんだ。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 10, 2021
明治24年5月10日14時20分:常盤ホテルで昼食を食べた後、京都御所を拝観後、上堀川にある川島甚兵衛が経営する西陣織工場に到着。綴織やゴブラン織の見事さに感嘆した。(大津事件後、川島織物は見舞品をニコライ皇太子に贈り、その功績で明治26年にロマノフ王朝御用達となった)#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 10, 2021
明治24年5月10日夕方:西陣織工場を後にしたニコライ皇太子らは、続いて二条離宮、西本願寺、東本願寺を拝観。さらに円山、知恩院、清水寺も見物する予定だったが、夕方になってきたので常盤ホテルに戻った。#大津事件130年 pic.twitter.com/tLQHFMxCNK
— 風霊守 (@fffw2) May 10, 2021
明治24年5月10日21時:ニコライ皇太子らはおしのびで常盤ホテルを出て、円山の左阿弥楼に到着。この日もまた翌午前2時まで芸妓らと酒宴で盛り上がった。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 10, 2021
ニコライ皇太子いつ襲われるのか楽しみにしてるのに毎夜酒宴に興じていてまだかという感じ。 https://t.co/DTAOFxUhBq
— 城井ふとん (@futon345) May 10, 2021
明治24年5月11日(月)(事件当日)
明治24年5月11日8時30分:ニコライ皇太子らは常盤ホテルを出発。人力車の列は逢坂山を越えて滋賀県の大津へ向かった。天気は晴天。絶好の琵琶湖遊覧日和だ。#大津事件130年 pic.twitter.com/sL392KukAt
— 風霊守 (@fffw2) May 10, 2021
明治24年5月11日朝:まもなく到着する国賓に備えて、大津では警備体制が着々と整えられていた。守山警察署所属の津田三蔵巡査と富家利八巡査は三井寺の観音堂裏手に配置された。ちょうど西南戦争の戦死者を祀る記念碑の前だった。#大津事件130年 pic.twitter.com/TorkxbPYX9
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日9時35分:ニコライ皇太子らが大津の長等神社に到着。そのまま三井寺の観音堂まで石段を上がり、観月台から風光明媚な琵琶湖を一望した。#大津事件130年 pic.twitter.com/O2eJbSvV5q
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日10時前:津田が警備する西南戦争記念碑の前をロシア人随行員2名が訪れた。彼らは碑に全く敬意を示さず、柵に腰をおろした。元藤堂和泉守藩士として西南戦争に従軍していた津田は、この時、ロシアに対する許しがたい感情を覚えた。#大津事件130年 pic.twitter.com/507n8TPhR7
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日10時前:さらにロシア人随行員らが石山・唐崎の方向を指差して、車夫に地勢を尋ねた。車夫は言葉が通じないので指で地面に絵を描いて説明した。警備中の津田は、地べたで四つん這いになっている車夫の姿を見て、ロシアの強圧的な態度にひれ伏す犬のように感じた。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日10時12分:ニコライ皇太子らは琵琶湖疏水沿いの道を進み、三保ヶ崎で人力車を下車。太湖汽船の保安丸に乗船した。#大津事件130年 pic.twitter.com/ipfEcAoLRP
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日10時17分:おだやかな湖面を眺めつつ、ニコライ皇太子らは唐崎に到着。歓迎の花火が打ち上げられた。唐崎神社の名勝「唐崎の松」を観賞した後、11時に再び保安丸に乗船して唐崎を後にした。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日11時40分:ニコライ皇太子らを乗せた人力車が滋賀県庁に到着。県の物産品が陳列されていたので、ニコライ皇太子とジョージ親王は栗太郡草津村名物の竹根鞭ステッキ(木村熊次郎出品)を購入した。#大津事件130年 pic.twitter.com/w6Oe7oPMeJ
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日正午頃:県会議事堂で昼食。ニコライ皇太子は同席していた沖守固滋賀県知事に大津での歓迎に対する感謝を述べた。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
ニコライ皇太子らの帰路の警備のため、滋賀県下の巡査らが京町通り(旧東海道)の両側に10間(約18m)間隔で配置された。津田が立っていた場所は、滋賀県庁から500m離れた地点にある下小唐崎町5番地の津田岩次郎宅の入口前(現大津市京町2丁目)だった。#大津事件130年 pic.twitter.com/VKB7otrAWZ
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日13時30分:大津遊覧を終えたニコライ皇太子らは滋賀県庁を出発して京都への帰路についた。人力車の列は百台に及び、先頭から5台目にニコライ皇太子、6台目にジョージ親王が乗車していた。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
滋賀県庁で後続の人力車への乗車に手間取っていたので、それを待とうとしてニコライ皇太子の乗る人力車はスピードを落とした。一方、先頭の4台(京都府警の竹中節、滋賀県警の木村武、沖滋賀県知事、万里小路接伴掛が乗車)は後続の遅れに気付かず、通常のスピードのまま進んでいた。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
県庁前の道を左折して、ニコライ皇太子が乗る人力車が京町通り(旧東海道)に入った。沿道には国旗が掲げられ、数多の見物人がひしめいていた。徐々にニコライ皇太子の乗る第5車と先頭4台の間隔が開き始めた。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
鍛冶屋町、葭原町、後在家町を抜け、下小唐崎町に入った。両側には商店が軒を連ねている。このときニコライ皇太子の乗る第5車と先頭4台の間隔は半町(約55m)も開いていた。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日13時50分:ニコライ皇太子の車が津田の前を通り過ぎようとした瞬間、敬礼の手を下ろした津田が突如サーベルを引き抜き、ニコライ皇太子の頭に斬りかかった。鼠色の山高帽が宙を舞った。大津事件の発生である。#大津事件130年 pic.twitter.com/vWyQnmpuCj
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
人力車の右側後部を押していた車夫の和田彦五郎が異変に気付き、咄嗟に駆け寄り、津田の左脇腹を強く突いた。津田は少しよろめいたが、再びサーベルを振りかざしてニコライ皇太子の頭に二太刀目を振るった。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
ニコライ皇太子は叫び声をあげて、人力車の左側に飛び降りた。頭を両手で押さえながら必死で逃げるニコライ皇太子を狂気の津田が追いかけた。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
凶行の一部始終を見ていた後続車のジョージ親王が人力車を飛び降り、津田に追いつき、手に持っていたステッキで津田の頭を思いっきり叩いた。2時間前に滋賀県庁の物産陳列所で買った栗太郡草津村名物の竹根鞭ステッキだった。#大津事件130年 https://t.co/1aNfE1ReNC
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
ジョージ親王と同じくして、車夫の向畑治三郎(ニコライ皇太子の人力車の左側後部担当)が津田の両足を抱えて引っ倒した。倒れた拍子にサーベルが投げ出され、それを車夫の北賀市市太郎(ジョージ親王の人力車の右側後部担当)が拾い上げ、津田の後頭部と背中に力強く振り下ろした。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
先駆車に乗っていた滋賀県警の木村武警部が遅れて駆けつけ「殺してはならぬ」と北賀市を制止。津田は江木猪亦巡査と藤谷幹一巡査によって捕縄され、下小唐崎町1番地の江木巡査宅の蔵に連行された。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
負傷したニコライ皇太子は有栖川宮から受け取ったハンカチで傷口を押さえ、下小唐崎町15番地の永井長助の呉服店(現初音屋楽器店)の店先で随行の医官ランバフによって応急手当を受けた。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日14時過ぎ:ニコライ皇太子が人力車で滋賀県庁に帰還。日本側の接伴掛が寝床に横たわって治療を受けることを勧めたが、ニコライ皇太子はこれを拒否して安楽椅子に腰を下ろした。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
江木宅の蔵では津田の治療が始まった。ニコライ皇太子の治療のために永井長助の呉服店に駆けつけていた町医者の村治重厚と塚本安巳が治療にあたった。背中の傷は長さ2寸・深さ7分で軽かったが、後頭部の傷が長さ4寸・深さ1寸で重傷だった。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日15時30分:滋賀県庁ではなく常盤ホテルでロシア側の医師による治療を受けたい、というニコライ皇太子の希望により、京都行きが決定した。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日15時50分:ニコライ皇太子らが馬場停車場(現膳所駅)から京都行きの普通列車に乗車。突然のことだったので特別列車の準備は間に合わなかった。#大津事件130年 pic.twitter.com/YVCtuibwZK
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日15時50分:大津地方裁判所予審判事の土井庸太郎による現場検証が完了。その場で書記武内忠篤によって検証調書が作成された。#大津事件130年 pic.twitter.com/AnHBqqU7ya
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日17時過ぎ:後頭部の出血が少なくなり、監獄医の許可が出たので、津田は釣台に乗せられ江木宅の裏庭を出発。琵琶湖岸の浜通りを南に進み、滋賀県監獄署へ向かった。#大津事件130年 pic.twitter.com/COzmcEWPOR
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日17時30分:ニコライ皇太子が常盤ホテル(現京都ホテルオークラ)に帰還。ホテル旧館2階の和室に入って安静にした。#大津事件130年 pic.twitter.com/ZwZwtkFqqt
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日18時:津田が滋賀県監獄署(現膳所公園団地・大津市科学館)に到着。未決囚として入監手続を済ませ、19時に医務所の布団に横たわった。#大津事件130年 pic.twitter.com/3nMH7LDKYj
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日20時:津田の容態が少し安定したので、大津地方裁判所の三浦順太郎予審判事らによる尋問が始まった。監獄医による診察をはさみつつ、尋問は午前0時まで続けられた。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
明治24年5月11日21時:ロシア軍医スミールノフとダヴィニオンが臨時列車に乗り神戸から常盤ホテルに到着。ニコライ皇太子の頭部の傷は長さ9cmと7cmであり、一方の傷は頭蓋骨にまで達していた。出血が止まらないため動脈の縫合が行われ、22時過ぎに治療が完了した。命に別状はなかった。#大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 11, 2021
おわりに
大津事件実況は事件発生日をもって終わりますが、事件の後処理はしばらく続きます。特に法廷ではもう一つの重要な物語があり、津田を死刑にすべきという強い圧力の中「司法の独立」を貫き、5月27日に無期懲役の判決が下されました。#大津事件130年 |Wikipedia「大津事件」 https://t.co/dFGtw57ggw
— 風霊守 (@fffw2) May 12, 2021
大津事件実況、いかがでしたか。司法の独立ぐらいでしか知られていない大津事件について、今回のツイートを機に少しでも興味を持っていただけたなら幸いです。ちなみに実況の主たる出典は吉村昭『ニコライ遭難』でした。膨大な史料に基づいて紡がれた良書です。https://t.co/hiVmJHOZXE #大津事件130年
— 風霊守 (@fffw2) May 12, 2021
出典
京都ホテルグループ130年の歴史 第一部 前史編 ~波瀾万丈~ 明治2年~明治27年
No.12〜15が大津事件関連。当時の新聞記事やニコライ皇太子の日記も載っていて、非常によく調べられているサイトです。知っていましたか? 近代日本のこんな歴史 - 大津事件 ~ロシア皇太子遭難をめぐって~
国立公文書館アジア歴史資料センターのサイト。大津事件関連の貴重な歴史資料が高解像度で掲載されてます。
あとがき
- 『ニコライ遭難』が好きすぎてまた記事を書きました。なんだかんだで大津事件シリーズは本ブログで3本目です。
- はじめて『ニコライ遭難』を読んだときから「130年の節目に実況したい!」と思ってました。忘れずに実況できて良かったです。コロナ禍じゃなかったら実際に全部歩いて回ったんだけどなあ。
- 実況に使った写真は過去10年間に自分で撮影したものです。それっぽい時期・時間帯の写真を引っ張り出してきました。昔撮った写真は位置情報を付与しておらず、写真探しがめちゃくちゃ大変でした。(文章を考える以上に時間を要したかも)
- 5月10日(事件前日)に大津市歴史博物館の大津事件展を見るついでに家族で三井寺に行きました。西南戦争記念碑のアクセスが悪すぎてびっくり。大津事件当時は観音堂裏にあったはずなのに、一体なぜ現在はこんなにも隔離されてるんでしょうね……
▲西南戦争記念碑へ続くあまりにも険しい道(三井寺裏)