琵琶湖の埋立地の変遷がわかる地図「大津湖岸埋立マップ」を作りました!
調査エリアは近代に大規模な埋め立てが行われた浜大津から膳所です。あと石山と瀬田もちょっとだけ。地形図や航空写真や都市計画資料を元に、大正時代から現代までの埋立地の拡大をマッピングしました。
せっかくなので湖岸埋立マップを片手に実際に大津の街を歩いてみました!
埋立地の"へり"に立って、ありし日のさざなみの音に耳を傾けたら、大津の都市開発の歴史が見えてきました。
明治時代の埋立地
琵琶湖の埋め立てが本格的に始まったのは明治時代から。
明治13年(1880)、大津駅(現在のびわ湖浜大津駅)から馬場駅(現在の膳所駅)までの湖岸が鉄道敷設のために埋め立てられました。現在の京阪電車石山坂本線(石坂線)です。かつては琵琶湖岸の築堤の上を電車が走っていました。
島ノ関・石場間(小舟入川橋梁*1)で京阪の線路を眺めてみると、当時の築堤の石積みが今なおフェンスの中に残っていました。残存状態は良好です。
線路の向こうを見てみると駐車場が見えます。
古地図と照らし合わせてみると、実はここは江戸時代の舟入(船着き場)跡。その証拠に文化5年(1808)建立の常夜灯が現存しています。鉄道開通以前は、住宅地の目の前まで湖が迫っていたんですね。
小舟入の常夜灯(大津市中央四丁目:1808年建立)。住宅地の中に突然常夜灯が現れて驚いた。ここだけ道幅が不自然に広いのは舟入(船着場)だった頃の名残だろう。 pic.twitter.com/bvy81kcfvu
— 風霊守 (@fffw2) August 21, 2015
続いて紺屋ヶ関踏切(島の関西交差点)に来てみました。大津駅前中央大通りを下ってきた場所にある踏切です。
ここでは明治時代の石積みを間近に見ることができます。ただし線路内立入は鉄道営業法違反になりますので、石に触れたい気持ちをぐっと抑えて遠目で見るだけにしておきましょう。
大正時代の埋立地
線路敷設後、埋立地が最初に拡張されたのが紺屋ヶ関です。
(昭和21年 米軍撮影航空写真 京都東北部 R275-A-7 より。一部加筆。)
赤色の部分が大正時代の埋立地です。明治時代の新湖岸ラインだった線路から、北側にぴょこっと長方形の埋立地が造成されました。船がいっぱい停泊しています。その東側の赤く塗っていない部分は、埋立地ではなく元々あった吾妻川の三角州です。人の手が入る前の一帯は、三角州がぽこぽこと突き出した長汀曲浦の湖岸だったようです。
紺屋ヶ関踏切(島の関西交差点)から見た現在の様子です。
太陽生命ビルの前に立ってみると、面白いものがありました。
埋立地の痕跡を示す高低差です。手前の低くなっている方(琵琶湖側)が大正時代の埋立地。たった1段ですが階段までついています。中学生の頃から「なんでここに段差があるんだ?」と不思議に思っていましたが、ようやく謎が解けました。
太陽生命ビルの横を琵琶湖岸まで進むと、埋立当時の記念碑が残っていました!*2
左側の石碑には「明治五年 波止築造 谷口嘉助 石工石山?」と刻まれています。
線路が敷設されたのが明治13年(1880)なので、それよりも前の時代の記念碑です。谷口嘉助(かすけ)は、明治5年(1872)に紺屋ヶ関汽船を設立して、大津・草津間の渡船で財を成した米問屋です。誰よりも早く防波堤を築いて港をつくる行動力!谷口さんの商才に感服です。
そして右側の石碑には「大正二年擴築 湖南汽舩株式會社」と刻まれています。大正時代に埋立地がつくられたことを後世に伝える重要な石碑です。
埋め立てを行った湖南汽船は、谷口嘉助の紺屋ヶ関汽船を前身とする汽船会社です。谷口の開拓精神が脈々と受け継がれていたようです。埋立地を港にして船の便数を増やすことで湖南汽船は大成功。設立から150年経った現在も汽船会社は存続しており、ミシガンやビアンカの運航で知られる琵琶湖汽船(京阪グループ)になっています。競争の激しい湖上交通全盛期を勝ち抜くカギは「埋立地」にあったのですね。
大津港に行ってみたら、ちょうど琵琶湖汽船のミシガンが停泊していました。この大きな船があるのも、すべては大正時代に埋立地をつくったところから始まっているとは。石碑がなかったら気付きませんでした。
昭和・平成時代の埋立地
戦後の大津は水辺の景観を活かした「観光都市」として著しい発展を遂げます!
昭和20・30年代には湖岸道路が整備され、昭和40年代には「におの浜」にホテルや商業施設が続々と建設されました。さらに平成に入ってからは湖岸公園である「なぎさ公園」が整備され、市民の憩いの場となりました。
まさに埋立地が大津の観光を支えていると言っても過言ではありません。
なぎさ公園を歩いていて気になったのは、公園の中央にどどーんと構えられている謎の長い石垣です。自転車道と歩道を分けているというわけでもなく、地面の石畳とも石材の色が違っていて、明らかに違和感があります。
石垣を境に若干の高低差もあるので「もしかして…」と思い、埋立マップを見てみたところ、予想的中!ここは昭和46年度埋立地と平成4年度埋立地の境目になっていました。そう、この石垣は防波堤の遺構だったのです!!
少し東に歩くと階段もあり、いよいよ防波堤らしい様相を呈してきます。
斜面が観覧席のような段々のベンチになっているのも面白い。平成の埋め立ての際に防波堤を破壊しなかったのは、昭和の埋め立てに対する敬意の表れなんでしょうか。はたまた、湖岸から離れた今もなお防波堤としての役割を担っているのかもしれませんね。
びわ湖浜大津駅から浜大津アーカスへ続くペデストリアンデッキも絶好の埋立地鑑賞スポットです。ついつい青々と広がる琵琶湖を眺めがちですが、もっと目線を手前に落としてください。そうそう駐車場のあたりです。
じゃーん!!
道路→駐車場→なぎさ公園 の順に少しずつ土地が低くなっています。異なる年代につくられた埋立地が織りなす雛壇のような地形!!う、美しい…(恍惚)
あえて名付けるとすれば「埋立地段丘」と言ったところでしょうか。
中学高校時代によく浜大津アーカスで遊んでいましたが、恥ずかしながら段丘の存在には全く気づきませんでしたね。馴染みのある街でも、普段と違う地図を片手に歩いてみると新しい発見の連続です。
まとめ
改めて湖岸埋立マップを見てみると、京阪電車(明治13年埋立地)も、大津港(平成3年度埋立地)も、浜大津アーカス(昭和31年度埋立地)も、琵琶湖ホテル(昭和33年度埋立地)も、びわ湖ホール(平成10年度埋立地)も、Oh!Me大津テラス(昭和37年度埋立地)も、大津プリンスホテル(昭和43年度埋立地)も、驚くべきことにぜ〜んぶ縁の下で支えていたのは「埋立地」なのです!
琵琶湖に築かれた埋立地は、まさに大津に繁栄をもたらす"夢の島"だったんですね。
参考資料
- 大津市歴史博物館:大津市制100周年記念特別展『家族の一世紀』, 1998.
- 滋賀県土木部:『滋賀県土木百年年表』, 1973.
- 滋賀県企画調整課:県庁舎と周辺地域のいま・むかし, 2010.
- 赤石直美, 河角龍典:近代期における大津の水辺空間の変遷と観光開発, 立命館文学, Vol. 645, p.p. 246-235, 2016.
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山口敬太, 田中倫希, 川崎雅史:近代大津の「遊覧都市」建設と都市計画ー湖岸埋立と湖岸逍遙道路整備を中心にー, 山口土木学会論文集D2(土木史), Vol. 71, No. 1, p.p. 39-54, 2015.
- 地理院地形図・航空写真、米軍地形図・航空写真等。
- 草津市:『広報くさつ 平成27年4月15日号』縁の古人58「谷口嘉助」
- 新琵琶湖逍遥 打出浜の移り変わり(2008/03/27)
散策日:2018/06/01, 2018/06/04
大津湖岸埋立マップは 2016/09/04 に作成したものです。