大好きな草津の街を案内してみた

街歩き好きの後輩ふとんくんが私の暮らす滋賀県草津市に遊びに来てくれました。かねてより「私の大好きな草津の歴史を誰かに説明したい〜!」と思っていたので、ふとんくんのような好事家が遊びに来てくれるのは、まさに千載一遇の機会。張り切って案内人を務めさせていただきました!

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大都会 Kusatsu City

街歩き前夜

本棚から郷土資料コレクションを引っ張り出してきました。

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草津東海道中山道の合流点として発展した街として知られているので、初回は「」を軸に案内することにしました。草津宿本陣、草津川、追分道標といった王道観光名所もちゃんと回れるので草津初心者にやさしいルートだと思います。草津史の基礎を押さえてない状態で、いきなり南笠古墳群や狭間池跡などの玄人向けスポットを案内するのはあんまりですからね。

プロローグ

ふとんくんがスペイン土産片手に遊びに来ました。おみやげは「サグラダ・ファミリアの魔方陣」の栞。素晴らしい。私の趣味をよくわかってらっしゃる。

さて、話を聞くと、ふとんくんは草津の街を歩くのは初めてとのこと。読者の中にも「草津?あの温泉で有名な…?」と典型的な勘違いをしている方がいるかもしれないので、まずは草津がどんな街かを簡単に説明しておきましょう。

風霊守「バサッ...」
ふとん「いきなりでかい地図が出てきた!」

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風霊守「草津東海道中山道の合流点というのは知ってるよね?」
ふとん「昨日Wikipediaで知りました」
風霊守「そこからかー!」

近江(滋賀県)は日本のほぼ中央に位置し、古代より交通の要衝です。京から東国に行く場合、山側を進むにしても、海側を進むにしても、近江を通るのが近道です。

しかし、周囲を高い山々に囲まれた「近江盆地」という地形なので、通れる場所が限られています。古代人は山と山の切れ目を探し、そこに道を通しました。なるべくなら高い山を登りたくないですからね。そこで目をつけたのが美濃の不破(関ヶ原)と伊勢の鈴鹿です。

これらの場所から平坦な土地を通りながら最短ルートで京へ続く道をつくると…

なんと草津で交わります!!

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第一学習社『最新日本史図表』より引用・加筆)

京から東国へ山の中を進んでいく関ヶ原ルートが「東山道」(江戸時代以降は中山道)、海沿いを進んでいく鈴鹿ルートが「東海道」です。

草津の中でも平安時代から鎌倉時代末期までは野路(草津市野路)が交通の要衝として栄えていたのですが、次第に野路が寂れ、草津草津市草津)の地が注目されだしました。『一遍上人絵伝』に出てくる「草津」という記述が、記録に残る最古の用例です。

そして、江戸時代に徳川家康五街道を整備し、草津宿は本格的な繁栄を迎えました。現在の草津の賑わいへと繋がる草津宿の歴史を今回の街歩きで紐解いていきましょう!強いてテーマをあげるとすれば…

風霊守「テーマは『陸の港・草津は道と共にどう栄えた!??』です」
ふとん「要素が多い」

草津川〜横町道標

さて街に出ましょう。JR草津駅を降りたら、まず見てほしいのが草津川トンネルです。

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全国でも珍しい川底の下を通るトンネルです。

草津川は人家より高い所にある「天井川」として知られています。上流の地質が花崗岩質なので、風化により砂が流出しやすく、すぐに川底が高くなってしまいます。川底が高くなると洪水の危険性が高まるので、人々は土を盛って土手を高くします。この繰り返しによって、江戸時代に立派な天井川になりました。このあたりの治水の歴史は是非とも第2回で詳しく紹介したいものです。

天井川の堤防の上に登り、上流側に向かって歩いていきましょう。

草津川は、2002年に新草津川に付け替えられて、現在は廃川となっています。流路跡は長い間荒地と化していたのですが、2017年に大規模な工事が行われて「de愛ひろば」として生まれ変わりました。

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市民の憩いの場と化した草津川流路跡

しばらく歩くと東海道草津川の合流点にたどり着きます。ちょうど東海道が工事区間の境目になっています。

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写真中央を横に貫いているのが東海道

江戸時代のジオラマで見てみると、街道の位置関係がわかりやすいです。

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東海道五十三次にも同じ場所が描かれています。上の写真の右側(北)から左側(南)を眺めた構図になっています。

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歌川広重東海道五拾三次之内 草津

堤防に植えられている木は、今は桜ですが、昔は松でした。

浮世絵の中央に描かれている火袋付き道標は「横町道標」と呼ばれ、現存しています。1816年に日野の近江商人・中井正治右衛門が寄進しました。

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東海道いせ道/右 金勝寺志からき道(信楽道)

実はややこしいことにこの道標は東海道を挟んで反対側に移設されてしまっています。「左 東海道」と書いてありますが、右が東海道なのでご注意ください。

ちなみに左は現在 になっています。国道1号線で分断されてるんですね。

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https://twitter.com/fffw2/status/683586994883002369

https://twittecom/fffw2/status/683586994883002369

最近まで国道1号線草津川の下を通っていたのですが、草津川跡地利用計画に伴って、2016年にトンネルが草津川もろとも撤去されました。ここも間もなく綺麗な公園に生まれ変わるようなので、ありのままの草津川の断面が見られるのは今だけです。

https://twitter.com/fffw2/status/683586994883002369

うばがもちや

国道1号線沿いの「うばがもちや本店」でお昼ごはんにしました。

草津名物「うばがもち」は、乳母の乳房の形を模した餡菓子です。織田信長に滅ぼされた近江観音寺城城主・佐々木義賢の曾孫を託された乳母が、生計を立てるために餅を売り出したのが起源だと言われています。

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風霊守「これが草津名物うばがもちです」
ふとん「ほとんど赤福ですね」

うばがもちやは永禄12年(1569年)創業の老舗です。もともとは東海道沿いにあったのですが、モータリゼーションの時代になり、昭和41年に現在の国道1号線沿いに移転しました。

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建物は滋賀県朽木村から移築した200年前の庄屋を再利用している

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先代の社長がお店を目立たせるために設置した信楽焼の獅子像

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資料が展示されている席を狙って着席。都合よく席が空いていて良かった。

横町道標〜追分道標

再び横町道標に戻りました。「左 東海道いせ道」に従って東海道を進みます。旧街道らしい趣のある町並みが続きます。

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町並みの合間からは草津川の堤防が見られ、人家より高い場所を川が流れていたことがよくわかります。

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しばらく進むと、大きな道標が見えます。追分道標です。ここが東海道中山道の合流点です。

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奥に続く道が中山道、右に伸びる道が東海道

ここの交差点は特に情報量が多いので目移りしてしまいます。道標が最重要なのですが、地面にあるデザインマンホールの数々も必見です!

マンホールに書かれている「慶長七年」は、徳川家康五街道と宿場町を整備して、草津宿が公式な宿場として開かれた年です。

ふとんくんがマンホールを見ながら「マンホールも中山道東海道の別れ道を表している!きっと地下の水道管もここで別れているのだろうな」と言っていたのが印象的でした。*1

江戸時代のジオラマを見てみましょう。川を越えているのが中山道、右に伸びているのが東海道です。明治19年まではトンネルがなく、川の上を越えていました。

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当時の様子は木曽海道六十九次(木曽街道=中山道)にも描かれています。中央左側に描かれている道標が追分道標です。

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歌川広重画 木曽海道六拾九次之内 草津追分

普段は水無し川なのですが、それでも川を渡るときは橋賃として3文が徴収されました。水深が1尺を超えると8文に値上がりし、3尺を超えると32文になったそうです。(天保3年『橋銭川越賃定書』)

草津宿本陣

草津宿には、2軒の本陣(田中七左衛門本陣・田中九蔵本陣)、2軒の脇本陣、72軒の旅籠がありました(天保14年『宿村大概帳』)。旅籠(はたご)を普通の旅館だとすると、本陣はVIP向けの5つ星ホテルです。現在、田中七左衛門本陣が当時のまま残っていて、国の登録有形文化財に指定されています。

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草津宿本陣(田中七左衛門本陣)

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御台所

本陣に残る大福帳(宿帳)には、明治天皇、皇女和宮新選組浅野内匠頭吉良上野介シーボルトなどの有名人の名前が記されています。本陣の名前が2軒とも「田中」だったので間違って違う本陣に宿泊してしまったり、予約の際にダブルブッキングが発生したり、脇本陣にVIPを横取りされてしまったりするなどのトラブルもあったそうです。

草津宿本陣に接する通りのカーブをじーっと見て、ふとんくんが「これは…暗渠だ!」と言ってました。流石です。通りの名前は「小川小路」。群上川(群上野井川)の暗渠です。

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心の目で見ると川の流れが見えてくる

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本陣の中にある御用水。かつては群上川の水を取り入れていた。

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江戸時代のジオラマでは群上川はまだ開渠。街道に石橋が架かっている。

草津宿街道交流館

草津宿の歴史を学ぶ上で大変便利な施設が、草津宿街道交流館です。

私は普段から調べ物で1階の資料室にはよく足を運んでいるのですが、2階の展示室に行くのは小学生のとき以来です。先程から載せている江戸時代の草津宿ジオラマは2階の展示室にありました。こんな立派な再現ジオラマがあるとは知らなかったので、案内人の私がめちゃめちゃテンション上がってしまいました(  'ω'  ≡  'ω'  )

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草津マニア垂涎の巨大ジオラマ!何時間でも見ていられる。

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浮世絵刷り体験。「ばれん」で版画を刷るのなんていつ以来だろう。

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宿場パズル。激むず。はずしたが最後、もう戻せる気がしない。

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中央にあるのは江戸時代の携帯枕。寝心地悪そう。

ちなみに草津宿街道交流館ではマンホールカードも貰えます。マンホールマニアの方は是非お立ち寄りください。

 道灌蔵(草津政所跡)

草津宿の酒蔵として有名な道灌蔵です。江戸城築城の祖である太田道灌の来孫(曾孫の孫)である太田正長が、幕府の内命を受けて、この地で草津政所を務めました。隠し目付けとして街道の動向を幕府に伝えるスパイのような役割も担っていました。

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立木神社

神護景雲元年(767年)創建の古社・立木神社。坂上田村麻呂が道中祈願に訪れたことから、厄除開運・交通安全の大神して信仰されています。

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本殿の前には狛鹿。武甕槌命鹿島神宮から旅してきたことに由来。

立木神社には延宝8年(1680年)築造の滋賀県最古の道標が現存しています。もともとは、現在追分道標が設置されている東海道中山道の分岐点に設置されていました。

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みぎハたうかいとういせミち(東海道伊勢道)/ひだりハなかせんたうをた加みち(中山道お多賀道)

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立木神社を越えたところで草津宿は終了です。出口は見通しの悪いなだらかなS字カーブになっています。これは「遠見遮断」と呼ばれ、外側から宿場町の中が覗けないように防御の役割を果たしています。

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京口の遠見遮断

草津宿では、他にも街道に交わる小路が筋違い(十字路で道をわざとずらして見通しを悪くする)になっていたり、随所に防衛上の配慮が見られます。

東海道と矢橋道の分岐点

草津宿を京側に抜けると、矢倉村(草津市矢倉)に瓢泉堂というひょうたん屋さんがあります。ここには江戸時代うばがもちやが建っていました。お昼に食べた姥が餅はもともと旧街道沿いのこの地で売られていました。

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瓢泉堂はもともと向かい側に建っていた。旅人はうばがもちやで姥が餅を食べ、向かいのひょうたん屋で瓢箪に水を入れたそうだ。

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歌川広重東海道五拾三次 草津。奥に描かれてる建物がうばがもちや。

ここは東海道と矢橋道(琵琶湖の矢橋港に通じる道)の分岐点であり、うばがもちを食べながら、旅人たちはどちらのルートで京に向かうか迷ったといいます。

瀬田へ廻ろか 矢橋へ下ろか 此処が思案のうばがもち

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右 やはせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし

右の矢橋道は琵琶湖を船で渡るルートなので、近道ですがリスクを伴います。一方、真っ直ぐ東海道を進むと、琵琶湖を大回りして瀬田の唐橋を通るので、時間が掛かりますが安全です。室町時代連歌師・宗長もここでどちらに進むべきか迷ったようで、こんな和歌を詠んでいます。

もののふの 矢橋の船は 速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋

そう、この分岐こそが「急がば回れ」ということわざの発祥の地なのです!

草津宿の衰退と大路井の繁栄

江戸時代に大変賑わった草津宿ですが、明治中期より衰退していき、賑わいの中心は草津川を挟んで反対側の大路井村(草津市大路)に移っていきました。

その原因となったのが、東海道の付け替えです。

明治19年1886年)、草津川の北側にある大路井村(おちのいむら)の長谷庄五郎らの申し出により、草津川の下をくぐるトンネル「草津まんぽ」が開通しました。

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このトンネルの開通により、東海道のルート変更が行われ、新東海道明治19年新道)と中山道の分岐点は草津川を挟んで反対側の大路井村に移りました(下図参照)。

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大日本陸地測量部 明治25年測図 1/20000「草津

東海道中山道の新しい分岐点には覚善寺道標が建てられました。

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左 中仙道/右 東海道

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明治十九年三月建之

そして、さらに草津宿衰退に拍車をかける出来事が起きました!

明治22年(1889年)、草津ではなく隣の大路井に国鉄草津駅が設置されたのです。

もともと草津駅の候補地は「急がば回れ」のうばがもちやがあった矢倉村だったのですが、蒸気機関車の煤煙や騒音が稲作に害を及ぼすという迷信から、地域住民が草津駅設置に猛反対。結果、不毛の地に等しい沼田だった大路井のはずれに草津駅が追いやられました。(『広報くさつ』昭和49年12月1日号)

鉄道の発展に伴い、大路井にどんどん商業施設が作られていきます。

  • 明治38年(1905年):日本旅行本社開業
  • 大正05年(1916年):栗太銀行大路井支店開業
  • 大正14年(1925年):草津温泉(群馬の草津温泉とは別物)開業
  • 昭和02年(1927年):映画館文榮座開業
  • 昭和31年(1956年):草津第二映画劇場(のちの草津シネマハウス)開業
  • 昭和43年(1968年):くさつ平和堂開業
  • 平成元年(1989年):Lty932開業

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こうして「道」の合流点が移ったことをきっかけに、草津宿草津市草津)から大路井(草津市大路)へと商業の中心が移り、タワーマンションがにょきにょきと林立し、現在の草津の景観を作っています。

まとめ

草津」という地名は人や物が行き交う「陸の港」に由来すると言われています。「道」の交わる所に人が集まって宿場町となり、「道」の変化に伴って街の中心が移り、現在の草津の賑わいが生まれました。

東海道中山道の合流点として栄えた草津は、鉄道では草津線琵琶湖線の合流点であり、高速道路では名神高速新名神高速の合流点にもなっていて、今なお「道」の交わりによって発展し続けています。

みなさんも草津にお越しの際は、是非とも旧街道で道草を食っていってください。

リンク

街歩き好きの後輩であるふとんくん目線の記事はこちら。


散策日:2018年4月8日

*1:せっかくふとんくんが良いことを言っていたのに水を差してしまいますが、草津市下水道地図を確認してみたところ、中山道東海道の別れ道で下水道管は別れていませんでした。L字に折れて東海道の方にだけ下水道管は進んでいます。